『アクタージュ act-age』について~終

「アクタージュ」原作者を逮捕 舞台も中止でファン再び落胆
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=145&from=diary&id=6192226


ため息ばかりが出る…。
コミックスはもう別の部屋の本棚の奥の方に仕舞いました。
これまではいつでも手の届くところに置いてあって寝る前にちょっと読んだり(もう何十回と読んでるけど)していたのですが、、、打ち切りが決まってからは、「あぁ、やっぱり面白いなぁ」と思うと同時に、「もうこの続きが読めないのか…」と打ちひしがれ精神衛生上良くないなと感じたので封印する事にしました。
…いつの日かこの封印が解かれる日が来ることを信じて…。


・「マツキタツヤのセンス」

原作のマツキタツヤさんは本当にセンスある人なのよ。。。
物語の構成、漫画としての構図、キャラクター造り方・魅せ方が巧い人で、これ程までに構成が巧いと感じたのはジャンプでは「ヒカルの碁」のほったゆみさん以来です。


(ここで詳しくは語りませんが、「ヒカルの碁」での、vs海王中戦の構成や、ネットsai編からの塔矢行洋戦へ繋ぐほったゆみさんの構想・構成は素晴らしいですね)

 

『アクタージュ act-age』はコミックス1巻2巻をほぼ表紙買いしてから、へぇまあまあ面白いじゃんという感じで一応コミックスが出る度に買ってはいましたが、真にファンになったのはコミックス10巻からでした。さらに言うならに第88話「俺の定義」からですね。日記(2020年3月28日)でも書きましたが、この11巻への引きが凄い良いのよ。おそらく単行本の収録話数も計算して狙って描いている(敢えての11巻へのあの引き)演出も素晴らしく初めて読んだときは唸りを上げ悶え、何回も読み返しては感嘆しましたよ。

 

銀河鉄道の夜」編で、役に深く潜る夜凪に似た演技法でさらにその先を行くキャラクターという描き方をされた明神阿良也が登場したときは(演劇という舞台で夜凪の先を行くキャラの出現に)、もうこれ以上のキャラを出すのは無理だろうと思っていたら羅刹女編での王賀美ですよ。最初は何だこのポッと出のキャラは?実は凄い天才の役者が居ましたっていう設定だけは納得せんぞ!と思っていたのですが、役者として漢として魅力的な凄い良キャラが出来上がっている事に、阿良也という強キャラの後にこれ程の魅力的なキャラクターを、そしてキャラクターの魅せ方とそのキャラクターを絡めた物語の構成の巧さに、俺だったらこんなん思い付かないわ、と惚れ惚れしたのでした。

 

「演劇:羅刹女」の舞台を観ている観客と同じ気持ち・感情で羅刹女への同情を漫画読者に抱かせる漫画演出・見せ方、
また同時に、羅刹女を演じる主人公:夜凪景の気持ち(個人的な自らの怒り・悲しみと役者としての使命の狭間で葛藤する心情)をも紙面で伝え、
そして、一見すると王賀美の意地とも思える独り善がりな演技・演出に舞台が成り立たなくなるとハラハラ焦る他の演者たちの気持ちを描きながら
そこからさらに王賀美が自らの役者としての矜持を貫きながらも状況をひっくり返し舞台を成立させる展開に、王賀美というキャラクターの魅せ方と、羅刹女を演じる夜凪の怒りと悲しみは同義であるという羅刹女の物語との絡め方・纏め方・魅せ方の構成が絶妙なのです。


そして、これも日記(2020年7月8日)で書きましたが11巻での夜凪の芝居を止める王賀美のキャラ(他の共演者のために敢えて泥をかぶるという世間からは傍若無人に見られているがその実、恐ろしく冷静に周りが見えている成熟した大人・漢キャラ)の造りに唸らされます。

 

羅刹女」編で、まさか阿良也を超える様なキャラクターの登場を想像していなかった・想像できなかった中での王賀美というキャラを登場・誕生させてくれたマツキ原作に、
次はどんなキャラが登場するのか。。。王賀美以上のキャラが現れるのか。。。次もまた想像以上のキャラクターとそれを絡めた物語を見せてくれるのかと楽しみにしていたのですが…。。。
巻を経る毎に加速度的に面白さを増して行く、本当にこれからが楽しみな作品でした。。。その分の喪失感が半端ないのです……。


同じ演劇漫画というジャンルで別の作品を薦める人がありますが、自分は、『アクタージュ act-age』を演劇漫画としては読んでいません。バトル漫画として読んでいます。


(バトルといってもライバル・敵役が居てその相手を打ち負かして決着するという純粋なバトル物ではなく、お互いのキャラの魅力がぶつかり合いその展開が二転三転しながらも「一つの作品」を作り上げるという、どちらかが正しい/正しくないで決着する様なモノとは趣を異にする創作系バトルです)


バトルとしての話の構成が巧いとジャンルを問わずに面白いんですよね…それが演劇だろうと、囲碁だろうと。。。ここでも冒頭で述べた「ヒカルの碁」を例に出しますが、「ヒカルの碁」の面白さ・凄さは囲碁のルールが全く分からなくてもそのストーリに、キャラに、構成にハマる事でできる点ですよね。
自分も「ヒカルの碁」完全版を全巻買って読むほど好きですが、囲碁は指せません。何となくしかルールは分かりませんがそれでも関係なく物語にハマりその囲碁勝負の展開にハラハラドキドキ読む事ができるのです。
それもこれもエンタメ重視(≒バトル的展開)の物語の構成・展開、キャラクター造り、魅せ方があるからこそなのです。


同じ演劇漫画というジャンルだけで別作品を薦める様な人はおそらく、自分が重きを置いている様な「物語の構成」等にではなく、ただ「演劇についてのメソッドや演者の心情描写を描いた」作品の事を語って薦めているのではないでしょうか。それは自分の求める演劇漫画とは違うモノなのです。

 

であるため、正直、他の演劇漫画を薦められても…、おそらく『アクタージュ act-age』と同じ熱量でハマる事はないだろうと思っています。


(自分が知らない・読んだ事がないだけで、構成の素晴らしい漫画・演出の素晴らしい漫画はまだまだ在るとは思いますがね)

 

上述の様な良質のエンタメ作品『アクタージュ act-age』を描けるマツキタツヤさんは本当にセンスのある人だと思っています(自らが「これは面白い!」と考え描いた物語を、他の人(大多数)にも同じ様に「これは面白い!」と感じさせる事ができる物語を創れるのはやはりセンスがあるという事だと考えています)。

 

 


・「『作品』と『個人(の罪)』」

別にセンスがあるからマツキさんの罪を許せなどと言いたい訳ではありません。
罪は罪として償い、悔い改めて然るべきだと考えています。
自分が語りたいのは、その後(数年~十数年掛かるのか分かりませんが)・更生後の話なのです。

 

そもそもファンが許す/許さないを決める話ではなく、許す/許さないを決めるのは被害者だけであり、そして、あくまで『作品』と『個人(の罪)』は切り離して見るべきと考えています。


「マツキ『個人(の罪)』は許さない・嫌いだ(認めない)けど『作品』は読みたい(認める)」、我々ファンはそれで良いと思っています。

 

どうしても『作品』と『個人(の罪)』を切り離して見る事ができないファンは『作品』を読むのを止めれば良いだけなのです。

 

『作品』と『個人(の罪)』を切り離して見る事ができない人というのは、もし好きなアーティストが今回と同じ様な性犯罪、もしくは麻薬等で捕まったとすると、そのアーティストのこれまでの作品・楽曲全てを嫌いになるものなのでしょうか?


自分の大好きな歌が作詞・作曲されていたその時に犯罪・違法行為が行われていたとしてその時の自分の感情、「あぁこの歌素晴らしいな、良い歌だな」と感じた自分の感情までも否定するのでしょうか?


その楽曲が制作されていた時・自分がその歌を聴いていた時に犯罪・違法行為が行われている真っただ中だったとしてその事実を知らない中で聞いた歌・そのとき芽生えた自らの感情までも否定できるものなのでしょうか?


自分は、その瞬間の自らの感情までも否定したくはないので・その時芽生えた感情は真実・本物なので、作品は作品・歌は歌として聞き続ける事でしょう。


(…事件以後の作品については、多少なりとも色眼鏡や下衆の勘繰りともいえる様な穿った見方をする人が居るだろう事は否めないのですが)


少なくとも過去の作品全てを否定する事・その作品を見て過去多くの人たちが共感・感動・心震わされた気持ち・感情までを否定する、なかった事の様に扱うのは、おかしな考えであると思うのです。

 

しかしそれでも企業として集英社として、週刊少年ジャンプそのものを存続させるためには「打ち切り」は必要な措置だった事は理解できます。


今回の事件への対応として、作画:宇佐崎さん一人で『アクタージュ act-age』を続けるという案もあったかもしれません。もしかしたら別の原作代行を立てて続けるという案もあったのかもしれません。
しかしそれだけ(逮捕された原作者を降ろす)ではやはり承知しない『アクタージュ act-age』という作品が存続する事が「許せない」と考える人たちが一定数居るだろう事は想像に難くありません。
初動を誤れば火はどんどん大きくなり、今の時代、下手を打ったらジャンプそのものが一時休刊に追い込まれる事もあり得たのかもしれません。そう考えると早期・即時の「打ち切り」已む無しの判断は理解できるのです。


(ベストの形は日記(2020年8月9日)で書いている様な今シリーズの終わりまで連載orコミックス化して以降の連載中止~だったのですが、まぁこれでは被害者軽視と炎上し炎が広がり対応遅きに失するという事になっていたでしょうね)


それに個人的には、原作:マツキタツヤ以外の『アクタージュ act-age』が下手に存続されるよりかは余程良かったと考えています(…よしんば、原作代行によるアクタージュが成功・面白い話が出来上がったとしても、やはりどうしてもマツキタツヤ原作ならどうだったろう?もっと面白くなったかもしれないという思いが付いて回る事になりますからね)。

 

そして、この下手に存続させる事をしないで「打ち切り」を決定した裏には、「作品」は「作品」、「罪」は「罪」~『作品』と『個人(の罪)』は別と考える~ジャンプ編集部としても原作:マツキタツヤ以外の『アクタージュ act-age』は読みたくないという思いが在ったと信じたいです。。。

 

 


・「犯罪者の社会復帰」

そして、更生後の話になりますが、、、
「世紀末リーダー伝たけし! 」の復活の前例もある様に、いつの日か原作:マツキタツヤの『アクタージュ act-age』が読める日が来る事を待っていたいのです。

 

「作品」は「作品」と考えている出版社・集英社(~という考えだと自分は信じている)が『アクタージュ act-age』という「作品」を復活・再開させるために出来る事、
被害者感情に最大限配慮し出来る事・出来得る範囲の事を考えます。
もし被害者が、
『アクタージュ act-age』というタイトルを見るだけで事件当時の恐怖を思い出してしまう、
または『原作:マツキタツヤ』という文字を見るだけで体が竦む
というのならば、「タイトル変更」「マツキタツヤというペンネームの変更」はやむを得ない事となるでしょう。
さらに、もし被害者がジャンプ読者であったならば、「タイトル変更」や「ペンネーム変更」したところで否が応でも「マツキタツヤ作品」が目に入る事になります。その様な場合は掲載紙をよりマイナーな物に変えるという事や被害者の目になるべく入る事のない配慮・意識的に見ようと思わなければ見れないという配慮が必要となるでしょう。

 

出版社が被害者のために出来る事・出来得る範囲としてはこの辺りではないでしょうか。
被害者感情に配慮し「被害者の事を考えもう二度とマツキタツヤ原作は掲載させない、創作活動を許さない・出版を認めない」~「犯罪者の創作物が犯罪被害者の目に入る可能性がある限り創作系の活動は許されない」というのは行き過ぎであると思うのです。


(ただねぇ…、今回の件で集英社は多大な損害を被ったであろうから、「作品」は「作品」という信条とは別次元の話として、金銭的・経済的損失の恨みから「集英社」として三行半を突きつけるかも…という事は否定できないのですがね)

 

別にこれは、マツキタツヤさんがセンスのある人だから言っているのではありません。
一般的な話として、一度でも罪を犯した人・犯罪者の社会復帰の場として、創作系の職業で「生きる」事は許されないのでしょうか。


もし「許されない」とする考えであるのならば、それは職業に貴賤をつける事であると言えます。

 

罪を犯した人間を一生刑務所に入れておけるはずもなく、犯罪者の社会復帰・社会に出て職業に就き生きていく必要がある事は誰もが理解できると思います。


(犯罪者の社会復帰を認めず社会から爪弾きにした結果、自暴自棄になりさらに犯罪を重ねる事も想像されます)

 

そこで(もちろん言うまでもなく罪を償い悔い改めている事が前提で)、
社会復帰を望む犯罪者に相応しい職業/相応しくない職業というものが果たして存在するのでしょうか?
社会が・世間が「犯罪者だから」この職業に就いてはダメ、犯罪者が就く職業は○○が相応しいと決める事は正しい事なのでしょうか。

 

創作系の職業の場合、その創作物を評価・その創作物にお金を出すかどうか・その職業で食べていけるかどうかを決めるのは世間一般になります。
その職業に就くことを認める/認めないは世間がその時に評価・判断すれば良いのです。
「社会」が犯罪者の社会復帰の職業に枷を掛ける事、そのチャンスの目を最初から摘むというのは行き過ぎ・必要ない事なのです。

 

上記の様な理由(プラス『アクタージュ act-age』という作品のファンであるという個人的な我が儘な理由)から原作:マツキタツヤの『アクタージュ act-age』が読める日が来る事を待っていたいのです。

 

…しかし、ファンがいくら望んでも
マツキタツヤ本人がもう『アクタージュ act-age』は描けない・自業自得とはいえ自らが引き起こした事の大きさに気を病みもう描けないと筆を折るかもしれません。
また、宇佐崎さん側がもう組めない・一緒に仕事はできないと拒否するかもしれません。そうなるともう二度と『アクタージュ act-age』は読めない事となるのですが…(やはり『アクタージュ act-age』は「マツキタツヤ×宇佐崎しろ」あってこその「作品」なのです)。


マツキタツヤさん側の気持ちがどちらに転ぶかは何とも言えないのですが、しかし宇佐崎さん側には、まだ夜凪達を描きたい、描き切っていないという思いがあり「作品」は「作品」と考え、自らが魂を吹き込んだ「キャラクター愛」「作品愛」を持っているという一縷の望みを懸けています。

 

『アクタージュ act-age』について語る事は、もう当分の間はないでしょう。。。
いちファンとして、
「マツキタツヤ×宇佐崎しろの」『アクタージュ act-age』という「作品」がいつの日かまた読める日が来る事を信じて
これで一旦、区切りとしたいと思います。


~『アクタージュ act-age』について~終

 

(2020年08月15日17:50mixi日記投稿分)