劇場アニメ「ルックバック」 ~感想

配信されていた劇場アニメ「ルックバック」を観しました。
以下、多少のネタバレを含む感想となります。

 


原作漫画公開当時にも話題になっていたのでそのタイトルは知っていました。その作者が「チェンソーマン」で名を馳せていた藤本タツキであることも認識してはいましたが、世間で騒がれれば騒がれるほど持て囃されれば持て囃されるほど俺は偏屈(自覚、認識はしてる)なのでその「話題作」みたいなのには触れない様にしていたのですよね(劇場版の鬼滅もそれで観に行かなかった)。

 

そしてその漫画が2024年にアニメ映画化し映画を観た人の感動して泣いたみたいな絶賛コメントも多く目にしましたが、騒ぎすぎだろ…過大評価だろ…と冷めた目で見ていてこれも避けていました。
そんな認識の作品だったのですがつい最近配信が開始されたということで、ホントにそこまで絶賛されるほどの作品か?まぁタダで観れるんだったら観てみるかと多少の期待を抱きながら視聴しました(作品のあらすじ、内容、テーマなど前情報はほぼない状態で視聴しました)。

 


結果は…、、、まぁ世間の評判なんてこんなもんか、話半分に聞くのがちょうどいいな、という感じ…、別に悪くはないのですが絶賛するほど良くもない。。。
藤本タツキは天才だ!みたいな声も聞きましたが…、これくらいの作品だったら他の漫画家でも全然描けるだろうよ、とホント世間の評判ってあてにならないと感じましたね。

 

 


まず述べたいのはこの作品で作者が伝えたかったこと、思いについての自分なりの解釈。
前段でも述べた様に前情報はほぼ入れずに観始めたためこの作品の主人公が漫画を描くということや女性であることも知りませんでした。
…ただ、作品内でセンシティブな事柄を扱っているというのは聞いていたので俺は東北の震災の事でも扱ってんのかなと思っていましたが、京アニ事件でしたか…。

 


今作を最後まで観終わって思ったのは、作者が言いたかった事・伝えたかったテーマはこの京アニ事件にあるのだなと感じました。
情熱を持って頑張ってた・生きていた人の命が奪われた…その事に対する作者が感じた無念さ、怒り、悲痛さをこそ伝えたかったのかなと考えました。
犯人に対する恨みというより事件そのものに対する恨み…、同じクリエイターとして作者が感じ取った志半ばで情熱を・命を絶たれた人の無念さ、辛さ、苦しさを吐き出したように感じました。
なので俺は、この作品は「京アニ事件を利用している」のではなく、というよりは「京アニ事件に対する(作者の)思いの丈、作者の心の叫びをぶつけた」作品なのだなと考えました。

 

 

 

で上記を踏まえた上で、お話・アニメーションの内容についてですが、
まず物語が始まってすぐの4コマ漫画の内容がアニメーション化するシーンを観た時には、オイオイこの作品大丈夫か?と不安に感じましたね。
いや、まぁ藤野と京本と画力差を表現するための演出意図は理解するけどちょっとやり方がチープに過ぎると思って先行きが心配になったのよね。

 


他にも不満というか疑問に感じる部分を挙げると、
主人公のモデルはおそらく今から20年くらい前に小学生だったであろう作者自身だと思うのですが、小学生時の主人公の設定は今から15~20年前が舞台であると考えています(作者の年齢や主人公がプロになった時デジタルで漫画を描いていることから考えても)。
そんなここ最近の子の・小学校4年生の画力/漫画力って(それも周りの子から称賛を浴びるほどであれば)、最近の子供であればもっと絵は上手いもんじゃないの?と思ったのですよね、知らんけど。
いやね、あの画力が幼稚園児や小学校低学年(1~2年生)であれば、もしくは40~50年以上前の小学4年生であれば周りが上手いと持て囃すのも分からんではないけど、周りから上手いと言われてるような今の子はもっと上手い気がするのよね、勝手な想像だけど。

 

 

あとは、主人公が京本に刺激され2年間絵の勉強に打ち込む訳ですが、寝食を惜しんで他の娯楽に目を奪われることもなく一途に漫画を絵を勉強したにしてはあまり上手くなってないな、と感じたのですよね。
確かに主人公の絵の成長を感じることはできましたが、脇目も振らず2年間漫画に打ち込んだ小学6年生の漫画にしては…と正直拍子抜けしたのですよね。

 

 

 

他に不満点というか蛇足だと感じた部分として、物語終盤で主人公が京本の家を訪れ「出てこないで」「出てこい」の4コマを見つけた際の「私のせいだ」という主人公のセリフ。


…それ言わせるんだ/言葉にするんだ、と残念に思ったね。「出てこないで」「出てこい」の漫画のコマとその後の主人公の表情やむせび泣くという動作だけで語る/表現するで良かったんじゃないと感じたのよね。
作者は主人公に言葉で語らせないと読者に伝わらないと考えたのかね?なんかそれが残念。。。

 

そしてその後の、破いた4コマの切れ端がドアの隙間に入って行って扉を隔てた/境界線のその先の…シュレーディンガーの猫的な、別の可能性の世界線の話へ繋がる訳ですが、これも蛇足だと感じる。
まず、京本は主人公に会わなくても結局は美大へ進学することになる結果に変わりがないということに納得がない…説明が足りないのです、ただでさえ蛇足と感じるお話なのにそこで一番重要なところを描かないなんて意味が分からない、納得の描き方が全く足りないのですよ(主人公と直接出逢わなかったことで引き籠りからの脱却・美大へ進学に数年の遅れが出るとかあってもよかったはずなのにそれも描かない、なにがきっかけで外へ飛び出すことを決めたのかの「納得」の描写が足りない)。


それにこの世界線の話って結果的に京本が救われる事になるみたいなミラクルが起きる訳でもないのですよね(主人公は精神的に救われる感じですが)。

 

そして別の世界線から京本が描いた4コマが返ってくるなんてオカルト・ファンタジー要素を描くことで作者が一番伝えたかった(と俺が考えている)「京アニ事件」に対する思いが弱くなる薄くなることになってるのですよね。
ホントこの終盤の主人公の「私のせいだ」以降のお話は蛇足だと感じる残念な造りでしたね。

 

 

俺としては変なオカルト・ファンタジー要素なんか入れず、京本のどてら(「藤野」のサイン入り)と京本の言葉「(藤野の)背中を見て~」のセリフがあれば十分(意味のない世界線の話なんか必要ない)と感じたのですよね。

京本が憧れていた「藤野」のサインが入ったどてらと京本の「(藤野の)背中を見て~」の言葉を主人公が思い出すことで主人公が再び前を向く…。

 


エンドロールの主人公の「背中」の画は、京本目線で主人公・藤野の「背中」をずっと見ている画で終わったのかなと解釈しています。
離れ離れになった後も京本がずっと見続けていた主人公・藤野の背中を…、生きていたら今も見続けていたであろうという思いを胸に抱きながら/京本に見せて恥ずかしくない背中を/背中に京本を意識しながら、これからも漫画を描き続ける主人公・藤野と
それを見つめ続ける京本(画面には映っていない/京本目線のエンドロール画である)という構図だったのかなと解釈しています。

小学生の頃、挫折して一度描く事を諦めた漫画を再び描く事になったきっかけが京本だった訳ですが、辛いことがあって今立ち上がれないでいる自分を再び立ち上がらせるきっかけ/漫画を描き続ける動機もやはり京本だったということですね。

(余談ですが、物語中盤の漫画家となった主人公が担当編集とアシスタントについて相談しているシーン…、「今アシスタントやってもらっている子は遅い」「あの子は早いけど…」「アシスタント増やさないと…」等々の主人公の言葉、、、これらの主人公のセリフは全部「京本が良い」「京本が良い」「京本が良い」に置き換えられると思っています…口には出さない主人公の本音、心の声として…)

 

 

 

京アニ事件に対する(作者の)思いの丈をぶつけた」作品であると考えると、作者は最初から京本を居なくなる存在/喪失するものとして設定していてその為に(悲しみ、喪失感を際立たせるために)純朴な、ピュアな存在・良い子としてだけ描いている(言い換えれば悪い面、嫌な面、人間的な部分を敢えて描いていない)のが分かる/感じるのがちょっと残念な造りではあるのですよね…京本というキャラをキャラクターとしてではなく悲劇・喪失感を演出するためのアイテム/ギミックとして描いているのが窺えてしまう。
お話作り、キャラクター造りに拙い部分感じる、特段悪くはないけどちょっと過度に褒めそやされてる作者・作品だとは感じますね。

 

 


作品の評価としては、可もなく不可もなくとなります。

 


以上