劇場アニメ「聲の形」 ~感想

録り貯めしていた劇場アニメ「聲の形」を観しました。
以下、多少のネタバレを含む感想となります。

 

原作、アニメーション共に色々と賞を受賞していて話題となっていた作品だったので
期待していたのですが、なんというか…ガッカリというかもう途中でちょっとイライラしながら観ていたそんな感じの結構酷い作品でしたよ。


問題点はいくつもありますが、まずは最初の導入設定のヒロインの聾唖者設定問題。
健常者を感動させるエピソードの材料のために聾唖者として生まれた訳じゃないのよね…所謂、感動ポルノ問題。
感動話を創りたいがために安易に障碍者設定を持ってくるその感覚・センスにまず作者の創作能力の低さを感じる。
そしてここで感じた作者の能力の低さは後述する納得のない設定、物語展開・構成により確信に変わって行くのですがね。
(今作「聲の形」に設定が似た作品として思い出したのが「レインツリーの国」。「図書館戦争」の作中作として登場する「レインツリーの国」ですが後に「図書館戦争」の作者有川浩により書き下ろされスピンオフ的に実際に出版された小説となります。「レインツリーの国」のヒロインは聾唖者ではなく難聴者設定ですが、
主人公が難聴者のヒロインに最初きつく当たる(難聴者と気付かず)、というところから始まる物語となります。
導入部はどちらも似た感じの始まりですが、物語展開・構成は比べるのも失礼なくらい「レインツリーの国」の方が良質ですよ。
聲の形」を観てモヤモヤしている人は「レインツリーの国」を読んでみると良いと思います…実写映画もある様ですが俺は小説しか読んだ事ないので映画は積極的には薦められないのですがね。。。
聲の形」の聾唖者設定は『イジメ』につなげる為の設定としてしかほぼ機能していない(『イジメ』が成立さえすればあとは聾唖者設定でなくとも物語が成立する)のですが、「レインツリーの国」の方は難聴者・障碍者設定が活きているのですよね…この辺りの設定・物語構築能力の違いの差よねぇ…)

 

 

で、次の問題。主人公は聾唖者ヒロインをイジメていた(しかも積極的にイジメていた)少年なのですよね。
なんなの?この作品はイジメっ子救済のための漫画作品なの?
イジメを行なっていた主人公は小学校高学年(6年生)なのですよね。自分のやっていた事に自覚のない幼児でもあるまいし、せめて傍観者的な立ち位置だった主人公ならまだ分かるけどイジメを積極的に行っていた・イジメに自覚的な少年が主人公なんて…。。。
ヒロインへのイジメ発覚後、次は自分がイジメのターゲットになり友達と思っていた奴にも手のひらを返され報いを受ける事になり、そして人間不信となった高校生の主人公…というところから物語が始まる事になります。
高校生になった主人公は過去を反省しているから・イジメっ子も今は反省してるから許してね的な…、、、作者自身がイジメっ子だったのか、そんなイジメっ子も後悔してるんだ・辛いんだよ、今は反省してるから許してね、とでも伝えたいのかねと身勝手な言い訳の様に感じてしまうのですよ、それが気持ち悪い・イライラする訳ですよ。

 

某相撲漫画で言われてた事なのですが、
「不良がちょっと真面目になったら褒められる、ふざけんな!不良にならず(道を逸れず)に当たり前の事をずっと真面目にやってる奴が一番立派だ」的なセリフがあるのですが、
この作品に感じる気持ち悪さ・イライラはまさに上記のセリフに表されていて、無自覚手ではなく自覚的・意識的にイジメを行なっていた奴が「反省してます、自分も辛い目に遭ったんです、今も苦しんでます、だから…」と言い訳して…ふざけんな!なのですよね。

 

積極的にイジメを行なっていた主人公、その後逆にイジメられ人間不信となった主人公、そんな主人公の再起の物語…そして感動ポルノのための必須ではない聾唖者設定、
という納得のない作者の自分勝手な身勝手な独り善がりな設定・物語構築に気持ち悪さ・イライラを感じる訳なのですよ。

 

共感・好感の持てない主人公の作品なんて好きになれるはずもないという事が分からない作者なのだろうね…、それかやはり作者自身がイジメを行なっていた経験があり、そんな自分を許してほしい的な作品なのかもしくは作者と同じ様にイジメを行なっていた読者へ対しての共感・救済のために描かれた漫画なのかも知れないね…、知らんけど。

 


で、あとは物語中の納得のない展開、設定について。

 

ヒロインは何故イジメていた主人公に好意を寄せているのか謎、納得がない。
喋れないから・語られないから余計に分からない。健常者設定であれば喋らない/口にしないその想いをモノローグで内面を語らせるという事も出来るだろうけど…、
もちろん聾唖者の方も頭の中・心の中で様々な思いを巡らせているのは当然の事なのですが、聾唖者設定でモノローグでの説明をやると聾唖者設定の意味が薄くなるというか…、
う~んまぁ物語の構築・設定次第だとは思うのですが…画で魅せる・画で納得を作る事が出来れば良いのですが難しい所ですね。
まぁこの作品の場合、納得が作れていないからダメなのですがね。

 


次に主人公/ヒロイン以外の登場人物について。
登場人物が10人くらい(も少し細かく数えると15人くらい)出てくるのですが、どのキャラもキャラクターというキャラクターが描けていないのです。
物語を展開させるための駒的役割しか与えられていないのです。ほぼほぼキャラとして造れていない。
だからこそ感じる、過去の友人たちとの会話や関係性、展開のおかしさに気持ち悪さを感じ、有り得ない・納得がないと感じ、
無理やり良い感じのゴールへ持って行くための納得ない展開の連続で話が進む事にイライラするのです。
ホント、この作者はキャラの設定も物語の構築もろくにできていないのよ、気持ち悪い。

 


あと、ばあさんのエピソード要らんやろ…、安易に死のエピソード持ってくんなよ、情けない。ホントこの作者は何が描きたいんだろうね。
(まぁこのエピソードはもしかしたらその後の展開・後のヒロインのある行動につなげる為の布石なのかもしれませんが、それだとしても「納得」はないのですがね)

 


次に、人間不信となった主人公の目を通して描かれる他者の顔に張り付いた(ダサい・チープな)ペケ印設定について。
ペケ印が剥がれるシーン・演出、違うんじゃない?と感じた。
(アニメーション上の演出問題ではなく原作?の設定・展開の問題)

 

友達だと思っていた奴に裏切られイジメの標的にされた過去を持つ主人公。
そんな人間不信になった主人公が、友達になろうと声かけられたからってそれでペケ印剥がれるの早くない?
また裏切られるかも…って考えないの?人間不信になってたらそう考えるもんだと思うけど…。
ペケ印が剥がれるタイミングは、こいつは裏切らない・本当の友達だという感じた時なんじゃないの?とペケ印が剥がれるその展開に疑問・納得がないと感じるのです。

 


ホントこの作者のお話の構成が甘いというか納得がないのよね、そういう納得のない事の連続でイライラする「聲の形」はそんな作品でしたよ。

 


京アニの作画・アニメーションは悪くなかったのですが(なによりも肝心のお話がダメだったので特段良いとも感じられませんでしたが)
物語の構成、キャラの設定・配置など作品の内容面は中の下or下の上、といった感じの
限りなく「不可」寄りの可もなく不可もなくとなります。

 

以上