アニメ「BEASTARS」 ~感想

録り貯めしていたアニメ「BEASTARS」を一気観しました。
原作は漫画であり、「グラップラー刃牙」の作者(板垣恵介さん)の娘さんが原作者の様です。新規アニメの予告映像で見たオオカミがウサギに恋をするみたいな内容からセツナイ系の話かなと想像し、原作者の前情報からもちょっと面白そうかもと期待していました。
以下、多少のネタバレを含む感想となります。

全話観た結果は、思っていた(期待していた)のと違ったなあ、でした。原作者の板垣さんがどこまで意識して描かれているのか分かりませんが、その設定・世界観、アニメ映像演出にちょっと納得できない部分があり残念に感じました。

第1話を観てまず驚いたのが、動物の擬人化・二足歩行している事です。予告映像では、ぼやぁっと見ていたので気付かなかったのですが、自分は普通に4足歩行する動物たちのリアルな(と云ったら語弊がありますが)世界観で描かれる物語(例えば犬アニメ「銀牙」みたいな映像、物語)を想像・期待していました。

第1話の冒頭で描かれるのは、草食動物と肉食動物が共存している社会(主な舞台は学園(高校)となります)で起こる食殺事件(肉食動物が草食動物を食べるという犯罪・事件)のシーンから始まります。自分はもうこの段階で違和感発生です。

二足歩行できるという事は「手(前足)」が自由になり、道具を使用できるはずです。実際に、食殺シーン後の場面、学校の食堂が出てきますが、ここからも調理に道具を、火を使用している事が判ります。道具を使用できるのであれば「肉食-草食」の関係がただ「狩るモノ-狩られるモノ」という関係になるはずがありません。道具を使用する事で身体能力の差・殺傷能力の差を大きく縮める事になり相手は簡単に手出しが出来なくなるはずです(草食動物の本能で肉食動物から逃げるという設定は理解できますが)。

さらに物語を観続けていると判る事ですが、学園の外は車道があり車が走っており、電車も走っています。物語後半には銃まで出てきます。おそらくスタンガン等も存在する世界でしょう。そんな世界で肉食・草食動物が共存していながらなぜ自衛のために武器の一つも持っていないのか?銃があるなら肉食-草食の関係が一発で逆転しますよ(学園という場を鑑みてスタンガンでも可)。なぜ道具を持つ以前の「狩るモノ-狩られるモノ」の関係のままなのか『納得』できないのです。原作者はそういうところ気にならんのかなぁと引っ掛かり物語に入っていけないのです。読者(視聴者)が疑問に思うだろう事になぜ気が回らないのか?「納得は全てにおいて優先するぜ」が分からないのかなと残念になりました。

そしてまたまた訳の分からない設定が出てきます。それはこの世界の肉食動物は肉を食べない、という設定です。法律で肉を食べる事が禁止されているらしくハンバーグ等の肉料理も豆バーグになるといった具合です。その法律・設定がいつから始まっているのか分かりませんがそれが何百年と続いているのであればその世界の肉食動物はもう肉食動物じゃあないだろうという感じがしますが…。

そもそも、肉食動物と草食動物の共存はどの様にして始まったのでしょうか?ただ「狩るモノ-狩られるモノ」の関係だったものがどの様にして変わったのでしょうか?
二足歩行できる様になり、道具を使う事を覚えた草食動物が肉食動物に反旗を翻し現在の立場を勝ち取ったのでしょうか。しかし、草食が勝者(草食動物が肉食動物を絶滅寸前まで追い詰めたりなど数的圧倒的有利)と描かれている様子(肉食動物を虐げている様子)はなく、肉食動物の捕食本能に草食動物は被捕食者としてビクビク恐れながらも共存しているという、どの様にこの共存状態が発生したのかよく理解できません。
原作者が大して深く考えもせず、ただ動物を擬人化して描きたいがための設定だからこんなユルユルなのか、物語的に擬人化する必要が本当にあったのか(4足歩行の動物がしゃべる漫画・アニメではなぜダメだったのか)、その『納得』がない、感じられないのが残念なのです。

と、ここまでユルユル設定だと作者は敢えてやってるのかなと、意識的にやってるのかなとも思えてきます。つまり本当に描きたいのは【「肉食-草食」動物の擬人化した世界】の話ではなく、「ジェンダー、種族・民族、宗教、身体的特徴・能力差、性格差、得手不得手、etc…」といった様々な価値観の違いを持ちながらも共存している【現実世界(人間社会)】を描いているのではと考えられます。
この物語で描かれている「肉食」、「草食」は【現実世界(人間社会)】でのなにか暗喩なのではないでしょうか(しかしこの考えの場合も『納得』は個人的にはできません。それは【現実世界(人間社会)】のリアルな関係・ドロドロした関係をそのまま「人間」で描く事では、人気が取れない(読者が付かない)から、だからリアルな「人間」を描く事を止めて「動物」という皮をかぶせてマイルドにして取っ付き易くしたという、クリエイターとしての「逃げ」の姿勢が見えてしまい(本当に自分が描きたい事を諦め商業的な成功を選択・優先した(商業誌なので決して間違いとは思いませんがそれでも)『納得』はできず残念に思うのです。「逃げ」の姿勢でなく、もし【「肉食-草食」動物の擬人化した世界】が本当に描きたい事だったとしたらこんなユルユル設定ではなくしっかりと練り込まれた世界(漫画)になるべき、なるはずです。。。「逃げ」の姿勢云々は、まぁ「BEASTARS」が【現実世界(人間社会)】を描いているという前提の話ですが)。

そして、そう考えたとき最初に思ったのは、この物語の本質が「オオカミ(レゴシ)とウサギ(ハル)の関係」(=周りから『正常』とは受け入れられない価値観の愛)にあるのならば、それは性的マイノリティの暗喩かな、でした。「肉食」は「肉食」同士、「草食」は「草食」同士でくっつくのが『正常』であり「肉食」が「草食」に恋をする事は、周りから理解されない、という世界観・価値観こそを描きかかったのではと考えました(つまり作品内で描かれている表面的なオス・メスの表現(レゴシが雄、ハルが雌として描かれている事)には大した意味はなく「肉食-肉食」「草食-草食」のペアリングがマジョリティーでありそれ以外はマイノリティーであるという価値観を描きたかったのか、と考えました)。

もっと穿った見方をするならば、オオカミ(レゴシ)の「捕食衝動」を「殺人・暴力衝動」と置き換えて、人は皆それを抑えて生きているが本能のまま生きれば良いさという感じの(刃牙描く人の娘だから「暴力」に対して肯定的なのかもと、かなり穿った見方です)、周りに何を思われても良い自分の思うままに生きろと、特殊な癖・性質を持つ人たちを肯定している、多様性を受け入れる社会であるべきという作者からのメッセージをのせた漫画・原作なのかなとも感じました。

あとは、物語の設定ではなくアニメ・映像演出においても納得のできない部分があります。それは、向かい合う二人(二匹)の顔を画面を分割して見せている演出について、です。
画面を二分割して相対するキャラの対比を一つの画面で表す事は他のアニメにおいても多くありますが、このアニメではそれが大して効果を持たない様な場面で多用され無意味・無駄な演出、機能してない演出として用いられており気持ち悪さを感じます。
この対比演出は通常、二者の間に物理的距離がある場合(精神的な距離の場合も有)や二者間の体格差がある場合に、二者の・互いの表情や心情の対比を一つの画面で中で効果的に魅せる演出として使用されます。その意味合いから、この対比演出の画面は分割線を挟んでお互いが睨み合う形になる事が常です。

しかし、このアニメでは左右に分割された画面に映し出されるのは、二人(二匹)が画面の正面を向いた顔になります。画面が分割された中で二者がそれぞれ真正面を向いたままの画(え)で会話しているのです。そして、この対比演出が用いられる場面も特に物理的距離がある訳でもなく(机を挟んでる程度です)、また体格差もそれほど(例えば大型草食獣と小型げっ歯類という様な大きな体格差は)なく、この対比演出を用いる意味も感じられず、またその通常とは異なる使い方(横向きではなく真正面の映像)に違和感を覚え気持ち悪さを感じるのです。
距離が近く体格差もない様な状態の二者が向かい合う場合は、一人(一匹)の真正面顔を画面に描きワンカット交互に画面を切り替えるという手法があります。普通に考えたらこちらの方法を用いるべきです。それを何故わざわざ画面分割して表現する必要があったのでしょうか?分割して真正面を向かせる意味がどこにあるのでしょうか?

教科書通り当たり前に、「横顔での向かい合わせ」の形を採らずに敢えて「真正面」の画面にする事にどれほど効果的な演出意味があるのでしょうか?演出的意味も考えずにただ奇を衒っただけの様に思えてなりません(もしかしたら単純にカット数を増やしたくなかったのかもしれません。本当にそう感じるほど不必要に、無意味に画面分割が多用されているのです)。
この画面分割の映像は(カウントした訳ではないので正確には分かりませんがおそらく)10回程度は使用されていたと思います。そのうち画面分割の演出が効果的に使用されたと思えたのは、シカのルイ先輩とオオカミのレゴシが向かい合って会話する場面でレゴシの手の動きを草食の本能からかルイ先輩が逐一眼で追ってしまうという1回だけでした。他はその演出意味が見出せませんでした。
真正面を向かせた映像で画面分割する演出意味も感じられずなぜこの様な訳の分からない映像を作るのか『納得』できないのです。

原作を読んだ事もなく、この作者がどういった人物なのかも分からないので、この作品が素直に【動物社会】を擬人化して描いているのか【人間社会】を暗喩的に描いているのか、原作者がどこまで意識的に描いているのか分かりかねますが、物語的にも映像的にも『納得』がない当作品は自分の琴線に触れる事はありませんでした。

 

(2020年03月08日18:30mixi日記投稿分)