アニメ「ゆびさきと恋々」 ~感想

録り貯めしていたアニメ「ゆびさきと恋々」を一気観しました。
以下、多少のネタバレを含む感想となります。

 

まずそもそも俺が基本的に感動ポルノ物作品が好きくない・よく思っていないということがあるので
(以前「王様ランキング 勇気の宝箱 ~感想」や「劇場アニメ 聲の形 ~感想」でも語っています)、
感動ポルノ系の作品である今作「ゆびさきと恋々」に対する評価(納得のない点の指摘も)自然と厳しくなります、ご了承ください。

 

 

まずは、良い所というか…感動ポルノ作品の例として先に挙げた「王様ランキング」や「聲の形」と比較しての相違点、プラス評価する点について。
「王様ランキング」、「聲の形」どちらの作品も主人公やヒロインが聾唖者設定なのですが、どちらの作品もモノローグがないのですよね。
おそらく作品内で聾唖者と相対する登場人物たちと同じ気持ち/感情を視聴者に感じさせる(聾唖者の思い・気持ちを想像させる)演出意図のため聾唖者自身のモノローグを描いていないのだと思いますが、制作側の意図通り「画だけ」で聾唖者設定の主人公/ヒロインの心情を正確に的確に視聴者に伝えることが出来ていればそれでも良いのですが…、残念ながら出来ていないのですよね、だから納得がない造りになってしまっている。


しかし、今作「ゆびさきと恋々」では聾唖者の主人公がモノローグでちゃんと自分の考えを語るのですよね。主人公のその考え/思考が分かるから…何を考えたが故の行動/反応かが分かるから観ていて納得があるのですね。

 

(例えば「聲の形」での聾唖者設定のヒロインが昔(小学校時代)自分をイジメていた主人公に対する想い…ヒロインが何を考えていたのかモノローグがないからその思いに全く納得がない造りとなっている。そのヒロイン(の思考)について当該作品を観た聾唖者の方自身が「あり得ない」と感想を述べられているのを見ました。当然ですね、有り得ないですよね、納得がないですよね。誰だってそう思う、俺だってそう思う)


その点(主人公のモノローグがあり納得が作られている点)が先に挙げた2作品と比べてプラス評価になる点となります。

 

 

 

で、以降は納得のない点について述べていきます。

まずはジャブ程度から。
主人公と彼氏の出会いの場面。
初対面の人間、それも異性の頭を撫でるって愛玩動物かなにかと思ってんのか?いくら海外経験豊富(設定)でもそうはならんやろ…。
むしろ世界各国行ってるのなら文化、宗教、価値観の違いから余計に慎重になると想像するけど。

またそもそも学生の身で頻繁に海外行けるなんてどういうご身分なんだよ、実家金持ちなの?
なんだろ?ただ彼氏のキャラクターに普通の日本人にはない積極性とかフランクさを持たせる為だけのバックパッカー設定なのかな?

おそらく上記の俺の想像は当たってるね…。いやね、物語終盤に彼氏キャラのバックパッカーの理由が語られるのですが終盤まで引っ張った割にものすっごい薄い理由(終盤まで引っ張るほどのエピソードでは決してない)だったのですよね。

 

そして彼氏キャラの部屋(暮らしぶり)について。
出たよ…、学生が一人暮らしするには分不相応な部屋。まぁ実家(両親の部屋)の様だけど…やはり定番の両親ともに家には居ない設定。物語展開の都合の為だけの(親排除という)雑な浅い粗い納得のない設定。

彼氏キャラ周りの設定全てが薄い。。。

 

 

 

続いて、主人公の「女友達」キャラについて。
聾唖者の主人公と友達ということで最初はこの「女友達」は主人公と幼馴染の関係なのかなと想像していました。
しかし、観進めていくと聾唖者の主人公の「男の幼馴染」が出てくるのですがその男幼馴染と「女友達」は知り合いではないらしいということが分かります。
なんだろ?どういうことだろ?だったらどういう経緯で「女友達」キャラは主人公と友達になったのだろう…。大学で初めて出会った関係みたいだけど…、幼馴染の関係でもなく手話ができる訳でもないのにどうして友達になったのだろう?その辺りの経緯って結局最後まで語られなかったよね?手話ができる訳でもないのに聾唖者の方に積極的に話しかける/友達になろうとするなんて結構敷居が高いと思うけど(主人公の性格から考えて主人公が積極的に「女友達」に話しかけ友達になったとは思えない(もし主人公から積極的に行動しているとするなら「女友達」が一人だけということと作中での主人公の性格描写の点で矛盾が出てくる)のですよね。

 

いや、普通に単純に主人公のことを昔から知っている幼馴染の「女友達」設定で良かったのではないの?そうしないと納得がなくなるのよ…そういうとこ気にならないのかな作者は。。。

 

 

 

で、、続いて主人公の家族の設定について。
家族内でホワイトボードを使って会話/コミュニケーションを取っているという設定に驚いた。
いや、家族は手話使えよ。作中であった「門限までには帰る」というやり取りもホワイトボードに書くより手話で「○○時までに帰る」と伝えた方が早いだろと思ったのよね。

第5話くらいで「家族は手話を使わない」と主人公が言っていたけど、じゃあ誰が主人公に手話を教えたんだろ?学校/施設に預けっきり(任せっぱなし)で家族・両親は娘のために/娘とコミュニケーションを取るために手話を覚えようと一切しなかったかな、一体どういう理由で聴覚に障害のある娘との一般的なコミュニケーション手段の一つである手話を(覚えることを)放棄するという考えに至ったのか納得のある説明、設定ができるのかね?
どう考えてんだろ作者は。。。

 

 

 

あとは、細かい所で言うと
主人公が彼氏キャラの口の動きから「ラオス」と「魔王」を間違えるというギャグみたいなパートについて。
「ら」と「ま」って母音的には同じだけどさぁ口の動き、舌の動きが違うでしょ、と思ったのよ。
(「ま」は唇が一度綴じて開くけど、「ら」は開いたままで舌が上に付くよね)
口の動きを読む能力に長けているはずの主人公がそんな間違い(読み間違い)をするか?あと会話の流れからも国名だと推察できそうなもんだが…、と納得がないのです。
まぁ前提となる知識・一般常識、教養がない(「ラオス」という国名を知らない)のならばしょうがないけど、主人公はそういう(一般常識、教養がない)キャラなの?違うでしょ?(だから描き方に納得がない)

 

 

 

他には、作中で主人公が走るシーンが4シーン程あったのですが(まぁその内3シーンについては一時的に感情が昂ったということや移動距離自体が短いや車などが通らない見通しの良い公園内ということで大目に見るけど)…、
耳が聞こえない中でヒロインが走るって…視覚からの情報が狭まる様な行為を何故やるのか?と疑問。いやね、聾唖者設定の人物を作中内で走らせるな、ということではありませんよ。
もし走るシーンを入れるにしても、壁や塀、垣根、車などの遮蔽物がある様な曲がり角なんかでは(周りの音が聞こえない中で走ることによって視界が狭まる場合)、聾唖者の主人公は必ず立ち止まって安全を確認してから進むという聴覚障碍者である故の安全配慮・確認を怠らない様子を入れるべき…、走るシーンを挿入するにしてもそういう安全確認シーンを俺だったら絶対にカットせずに描くけどな(シーン自体が間延びするのでカットしたということかも知れませんがそれは「納得」の優先度を下げた/スピード感のある展開を優先させた…作品から「納得」を削ったという事なのですよね)。
曲がり角や見通しの悪い場所で確認もせずに飛び出すって聾唖者の方にとっては命のかかわることだと思うのですよ…ちょっとしたことかも知れないだけどそういう配慮がないシーン作りに納得がない、許せないと感じるのです。

 

 


あとこれはどうでも良い細かい所でちょっと疑問に思った・気になった点があります。
主人公の子供の頃の回想シーンが描かれているのですが、その髪の色が今の主人公の髪の色と違うのですよね(幼少期:茶、現在:ピンク)。
いやね、主人公のピンク髮はキャラを見分け易くするためのアニメ的表現・演出だと思っていたのですが…どういうこと?アニメ的表現・演出ではなく実際に髪を染めてピンクにしているという意味なの?
(そうでないのならば何故いまと昔で髪の色を変えて描いているのか、という話になってくる)

おとなしそうな感じ見た目(服装や顔つき)に似合わずドピンクの髪の色ってそんな訳分らんような奴に絶対近寄らんわ…。

 

 

 

また、構成についてもおかしい。
この作品って聴覚障碍者と健常者の恋愛というドラマを描いているのだと考えるのですが…、薄っぺらい造りの感動ポルノにしかなっていないのですよね。


この手の作品の普通のドラマ造りの構成では、聴覚障碍者と健常者の「耳が聞こえない事によるすれ違い」みたいなものでドラマを造っていく(盛り上げ所を造る)と思うけど今作に関してはそういうのがほぼないのですよね。
聴覚障碍者である故のドラマというのがないので聴覚障碍者/聾唖者設定が本当に必要な作品だったのかという疑問、納得のなさがあるのです。
(耳が聞こえない事が起因する)伝えたいことが言葉で伝えられない・もどかしいみたいな設定を作りたいだけならば例えば主人公は「重度の吃音」であるという設定でも良い・充分だと考えるのですよね。
「耳が聞こえない事による気持ちのすれ違い」「聴覚障碍者と健常者との恋愛の難しさ」みたいなことを問題に描かないのであれば…聴覚障碍者でなければならない理由がないと感じる、納得がないのですよ。
そういう所/物語構成が薄っぺらい造りの感動ポルノにしかなっていないという所以なのです。

 

 

 

他には、OPの映像で主人公とその彼氏、そしてその友達ズの恋愛模様が描かれる展開が想像される映像となっていますが、
主人公の「女友達」と彼氏キャラの友達「店長」の二人の関係って別に片思いや三角関係ということもない普通に関係が進んで行くだけなのですよね。
薄っぺらいどころではない。わざわざOP映像で意味あり気に/物語の重要な構成要素みたいに描く意味が全くないのですよね。
ホントどういうつもりでこのOP映像作ってんだろ?全く納得がない。

 

 

また彼氏キャラの友人の「美容師」と「彼氏キャラの女友達」の関係についても…。
「彼氏キャラの女友達」が彼氏キャラに完璧に振られたから・だからその流れで告白する、隙間に入り込むみたいな、弱ったところを狙うみたいな感じの流れ/展開も如何なものかと感じる…。
いやいやいや、時間をかけて少しずつ関係を進めるでもいいやろと感じたのよ(これまで散々、高校時代からずっと待ってたんだからね、時間かけること自体は苦ではないはず。今は「彼氏キャラの女友達」の傷を癒すことに専念していいやろ、自分優先ではなく彼女優先で良いやろと感じる納得のなさ)。

 

 

あとは、主人公の「男幼馴染」の側にいた女は誰よ?どういう関係よ説明あったかしら?(公式HPやWIKIにも載ってないし…)
もうただ「男幼馴染」のための救済キャラにしか思えんよ。ホント雑なキャラを雑に配置してあるなぁ。。。

 

 

 

 

そして、作画・演出面についての納得のなさも述べると…、
大学生(女子大生)である主人公をデフォルメして犬か何かの様に(作中ではオコジョとも形容されていましたが)可愛さを強調して描いているシーンがちょこちょこあるのですよね。
冒頭でも述べましたが、愛玩動物かなにかと思って描いてんのかこの作者は?聾唖者は健常者を感動させるための存在している訳でも愛玩動物として存在している訳でもないんだぞ。
ホント何を考えてこの作品を描いてんだろこの作者は、と納得がないのです。

 

 

いやね、感動ポルノ作品にするのならばせめてリアルに描けよ、最低限そこは徹底しろよ。
デフォルメ・可愛さ強調(萌え)、漫符表現の多用なんかで障碍のリアルから逃げようとするな、甘えるな、お茶を濁すなよ。
感動ポルノ作品にするのならば覚悟を持って描けよ、と思う訳なのです。

 

 

なんかここ最近(「聲の形」以降か?)、感動ポルノ作品が増えてきた様な気がする…。
昔はタブー視(見世物にするみたいなことは良くないと自重)されてきた感じだったのですが(それでも多少は在ったけど)、最近はタガが外れたみたいになってる気がする…。
やるな・やったらダメとは言わないけどさ、やるのであればシッカリ覚悟を持って納得のある作品にして欲しいのだよね。。。

 

 

 


と、ここまで述べてきた様に納得のないことだらけの作品・作者の考え方が目につき、安易に感動ポルノを描こうと考える様な作者だからやはり深く考えずに創作してんだろうなぁと感じられる残念な造りの作品でしたね。

 


作品の評価としては、
限りなく「不可」寄りの可もなく不可もなくとなります。

 

 

以上